古代からALREADY

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摂関政治を勉強したかったレポート

こんにちは。

暑さにやられて髪をぶった切ってきた私です。

今日も見に来てくださりありがとうございます。

 

はい。今日はね。

タイトルでお察しの通り、「レポートそのままどーん」回です。

 

ちょっと今日明日活動があり……

今回と次回はこれです。すみません。

 

マジのレポートそのままだし色々知識がないのでホニャホニャです。

摂関家に萌えたいのでこれからもがんばって勉強します。

まずは、通過地点ということで……ご指摘などあれば、よろしくお願いいたします。

 

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摂関政治の確立とその意義について

♥はじめに♥


摂関政治平安時代中期の主要な政治形態である。

9世紀以降藤原北家の地位が上昇し、10世紀末から11世紀初頭の藤原道長の時代に、その権勢は頂点に達した。

 

この時代に行われた摂関政治とは、日本史においてどのような意義を持つのだろうか。

また、日本史全体を概観したときに、摂関政治が行われた時代はどのように位置づけられるのだろうか。

 

ここでは、摂関政治確立の最終段階に注目し、摂関政治確立における安和の変の意義、摂関の地位の完成、そしてその全盛期である藤原道長とその子頼通の時代の三点を中心にみることで、その歴史的意義を探る。

 

 

1.摂関政治確立の概略


摂関政治とは、平安時代中期、藤原氏が摂関・関白となって行った政治形態である。


摂関政治の確立に不可欠な要素には、藤原氏による他氏排斥があった。主要なものとしては承和の変応天門の変菅原道真左遷などがあるが、ここではその概要を述べるのみとする。


まずは承和の変だが、これは承和9年(842)伴健岑橘逸勢らが謀反を企てたとして処罰された事件である。

藤原良房はこの事件によって他氏族を退けるとともに、藤原北家の優位を示した。

また、天安2年(858)、良房は清和天皇外戚として臣下で初めて摂政に任じられた。


貞観8年(866)年の応天門の変では、応天門の炎上事件から伴善男紀夏井らを罰し、大和豪族に由来を持つ名門である伴・紀両氏を没落させるに至った。


良房の後継者であった藤原基経は、元慶8年(884)に光孝天皇の関白となったが、基経没後の宇多朝では、摂関を用いず菅原道真が重用された。

しかし延喜元年(901)、右大臣道真は藤原時平によって大宰権帥に左遷された。

これまでに他氏排斥を進めてきた藤原北家にとって、道真の存在は脅威となり得たのであろう。

 

ちなみにその後の醍醐・村上両天皇は親政を行ったが、この合間に位置する朱雀天皇の時代には、藤原忠平が摂関を務めた。


ここまで藤原氏による主な他氏排斥事件の概要を説明したが、最後の他氏排斥事件は969年に起こった安和の変だとされる。

次章で詳細を扱い、この変の歴史的意義を考察していく。

 

 

2.摂関政治確立における安和の変の意義


安和2年(969)3月25日、左馬助源満仲源経基の子)と前武蔵介藤原善時が、源連と橘繁延に謀反の疑いありと密告した。

翌26日、源高明 もまた婿である為平親王皇位に就けようとした謀反の嫌疑をかけられて、大宰権帥に左遷された。

 

これが安和の変であり、藤原氏による最後の他氏排斥事件とされる。

また、この事件は藤原師輔の弟である師尹と師輔の子ら伊尹・兼道・兼家が、為平親王の後ろ盾を排除せんがために起こした陰謀事件であったとされる。


そもそもこの変が起こった原因は何だったのだろうか。

 

これについて、まずは冷泉天皇周辺の皇位継承問題をみていく必要がある。

冷泉天皇は天暦の治で知られる村上天皇の皇子であり、その村上天皇が康保4年(967)に死去したのち18歳で即位した。

しかし精神的疾患 があったといわれ、いわゆる「奇行」に関する記録も残っている。

関白には藤原実頼が任じられたが、冷泉天皇外戚ではなかった。

このとき皇太子の地位には守平親王がつけられた。

年上であった為平親王が皇太子になれなかった理由としては、冷泉天皇天皇位を退いた場合実際に即位し、源高明外戚の地位に就いてしまう恐れがあったことが挙げられる。

源氏の繁栄は藤原氏にとって避けたい事態であったと思われる。

 

安和元年(968)には、冷泉と懐子(伊尹の娘)の間に師貞親王花山天皇)が誕生したことにより、師尹と伊尹・兼家ら兄弟の関係が不安定になった。

さらに安和の変直前には、当時蔵人頭であった兼家が中納言に昇進しても蔵人頭を兼任し続けた。

これは異例の事態であり、師尹・兼家の争いが両家の家人を巻き込んだ事件に発展したのであった。

つまり安和の変は、藤原氏の他氏排斥事件という面だけでなく、皇位継承問題から派生した藤原氏内部の権力抗争という面もあったということである。


では、安和の変の歴史的意義とは何か。

 

加藤友康編『摂関政治と王朝文化』によると、「藤原氏による摂関政治の展開の幕開けを象徴する出来事であった」という。

実際に安和の変藤原氏の他氏排斥は完了したといえよう。

そして先ほども述べたようにこの事件は藤原氏同士の争いの第一歩であった。

また、これ以後摂政・関白が常置され、摂関となったのは藤原忠平の子孫であった。

 

しかしこの時点ではまだ、摂関の地位は藤原道長の時代にみられるような圧倒的な権勢を誇るものではなかった。

 

次章では摂関の地位が上昇し、完成に至るまでの過程をみていく。

 


 
【参考文献】
加藤友康編(2002)『日本の時代史6 摂関政治と王朝文化』吉川弘文館
大津透,大隅清陽,関和彦,熊田亮介,丸山裕美子,上島亨,米谷匡史(2001)『日本の歴史08 古代天皇制を考える』講談社

 

 

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はーい。明日へ続きます。

では。